初代支部長:田巻健治 先生

日本心血管インターベンション治療学会東北支部
公益財団法人岩手県予防医学協会 田巻 健治

「CVIT東北地方会」発足以前の東北地区のPCIの取り組み

 岩手県立中央病院での初めてのPCIは1985年(昭和60年)10月であった。この時は東邦大学大森病院の循環器内科助教授の矢部喜正先生に立ち会っていただいた。その後、延吉正清先生が主催する冠動脈形成術研究会(1985-1991年)に参加し、そこでの熱いやり取りに魅せられ、小倉記念病院へは何度もうかがって指導していただいた。延吉先生には1987年に新築移転したばかりの岩手県立中央病院に来ていただいて、新病院自慢の200名収容の円形大ホールで、PCI 2例とPTMC 1例のライブデモンストレーションを行なっていただいた。PTMCは、当時はまだ延吉先生と井上バルーンを開発された高知市民病院の井上寛治先生のお二人しか始めておらず、当院の症例が全国で初めてのライブ症例となった。この時は僧帽弁狭窄症の女性の圧格差が正常値まで下がり、心不全症状が全く消失する劇的な症例であった。このライブが契機となって、1994年から東北地方にPCIの技術を発信する岩手ライブが開始となった。「CVIT東北地方会」発足の3年前のことであった。

 ステントが無い時代のPCIの最大の合併症は拡張した病変が5分か10分後に閉塞する急性冠閉塞であった。多くは長時間のバルーン拡張で何とかしのぐことができたが、何度再拡張しても再閉塞を繰り返し困惑することもあった。進退窮まって延吉先生に電話で相談したことも何度かあったが、いつも快く応じていただいて不思議と切り抜けることができ、「神様、仏様、延吉様」であった。

 当時の東北地区の主なメンバーは、弘前大学の三国谷淳先生、八戸市民病院の菊池文孝先生、秋田成人病センターの門脇謙先生、岩手医大の深見健一先生、仙台オープン病院の宗像敬先生、宮城社会保険病院の目黒泰一郎先生、山形県立中央病院の横山紘一先生と荒木隆夫先生、星総合病院の木島幹博先生であり、この先生方と現在のCVIT地方会の前身となる「東北PTCA研究会」を立ち上げて、活動していた。1997年2月にCVITの地方会が発足した際は、「東北PTCA研究会」のメンバーや体制はそのままで名称だけが変更され、「CVIT東北地方会」となった。

 東北地方で最初にPCIに精力的に取り組んだのは山形県立中央病院の横山紘一先生のグループであった。横山先生は東北地区のPCIの開拓者であり、第3回日本心血管インターベンション学会学術集会を主催された実力者であった。しかし間もなく病院長となられて一線を退かれ、後任は真面目で堅実な荒木隆夫先生が引き継がれた。仙台オープン病院の宗像敬先生はバルーンやワイヤーの細かな特徴に精通し使いこなすことができた天才肌のテクニシャンであった。若くして逝去されたことは東北地区の大きな痛手であったと残念でならない。八戸市民病院の菊池文孝先生も当時から活躍されていたバイタリティー溢れるテクニシャンで、右冠動脈3番の末梢の分岐部病変に対するDCA症例などで皆を驚かせた。現在も八戸ハートセンタークリニックでPCIを精力的に施行されている。ちなみに、菊池先生の一番弟子であった吉町文暢先生は現在東海大学付属八王子病院の循環器科教授として、また前CVIT会長の伊刈裕二先生の右腕として活躍中である。また星総合病院の木島先生は岩手県立中央病院よりも1年早く1984年にPCIを始められ、そのパワーで東北地方のPCIのリーダとして長く活躍され、CVITの学術大会の会長だけでなく、日本心血管画像動態学会の副理事長や学術大会会長など全国レベルで大活躍されている。ライフワークとされているDCAについては、今も「ニプロ株式会社」と共同で動物実験にかかわっており、私が最も頼りとした情熱の方である。

 岩手ライブは現在も岩手リアルワールドライブとして継続されているが、開催にあたって力を貸していただいた大阪府立成人病センターの加藤修先生との出会いは、先生がCTOについて発表されていたポスター会場であった。先生は独特の飄々とした話しぶりで、「CTOは、ワイヤーさえ間違わなければ、ほとんど成功します」と自信たっぷりに説明され、半信半疑の初対面の私は驚いてしまったことを鮮明に覚えている。加藤先生を通じて、国立療養所豊橋東病院の鈴木孝彦先生と滋賀県立成人病センターの玉井秀男先生とも懇意となり、ながく岩手ライブを支えていただいた。

 PCIの黎明期にご指導いただいた諸先生と当時一緒に活動した東北地方の先生方に心から感謝を申し上げます。(所属病院はすべて記載当時のものです)